語り部と中学生の暴言
2014-06-10


そんなことだから、おとなしくする能力の低い子供と、自分の経験でもないことを語り流して(つまり応用がきかない)ありがたがられることに慣れきったお年寄りのあいだの、売り言葉に買い言葉になってしまう。担任の指導力なんてものは「人権教育」の果てに、なんちゃってルールとしてしか存在しないから、形式上での調整のしようがない。
おこりそうなことが、ふつうにおこっているだけですよね、これ。

こういう、有無を言わせない形での「語り部」継承はなかなか無理があるとは思う。
語る資格があるのはモノホンの一次的な被曝者被災者であって、そういう人たちがなくなったそのあとに、「聞き語り」を継代できるものなんだろうか。
風化させないというならほかの手を考えたほうがいい。「実際に身に覚えもないことを、上から目線で語り継ぐ年寄のいうことを、だまって伺う会」になってしまってはどうしようもない。

「語り部」については、大手メディア共通の距離感があるんだろうと思います。だから、情報のやり取りも(たぶん)ないのに論調はそっくりになる。
で、そこに「中学生」とか「担任」とかをあてはめて、「ひどい!」とか「すばらしい」とかいう感情を有無を言わさずひきおこすフォーマットになっているのである。
これはたとえば、韓国の自称慰安婦に引き合わされた高校生が、という形で容易に流用が可能で、こういう「物語」つくりが私はどうにも気持ち悪くてたまらない。

同様にして、日本のマスメディアは、いつまでたっても「物語」の生産をやめない。
津波後物語、放射線避難物語は大々的に進行中だし、真央物語、小保方物語のあとも、規模にかかわらずいろんな物語をメディアは垂れ流し続けている。
そこではみんなが、「期待したり」「わくわくしたり」「悲しみに我を忘れたり」「いっしょに力を合わせたり」「たまにはがっかりしたり」「決して忘れることができなかったり」して、懸命に生きてく、らしいのである。
感情は理解できるし、私もそう感じると思う。
しかし、反論しようのない感情的な反応を、有無を言わさず垂れ流すのが報道か?

読み物として売るならともかく、報道、が、「物語化」にあまりに無自覚で、もう、どうしようもないと思ってみております。
これを報道というなら、せめて、どの程度の学校がこのダークツーリズムをどのように行いどのような反応が得られているのか、きっちり取材して示したらどうなのかね、この機会に。「いいこと」だからって「ちゃんと行われているか」なんてわからないんだし。

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