他人に指図する善意
2012-05-14


産経新聞のコラムだが、10年前、雲南省に日本人ボランティアがたてた小学校が、今じゃ勝手にどっかの会社のものになって教育にも使われず記念碑も足蹴にされ、ということを、悔しげに書くのである。

上海余話 誠意への応え方
2012.5.14 03:04 [中国]
 ミャンマー国境に近い雲南省龍陵という村を訪ねていた日本の知人が帰路、上海に立ち寄って怒りをぶちまけた。日本からの1千万円近い寄付で、10年ほど前に龍陵に建てられた小学校を探しにいったところ、校舎ごと地元建設会社に売り払われていたのだという。建設の由来を記したプレートは見るも無残に破壊され、貧困な村にも教育を、と願った日本人の誠意は踏みにじられた。知人の証拠画像を見ながら、怒りと悲しみで飲み過ぎてしまった翌日、上海支局に電話がかかってきた。


馬鹿書いちゃいけない。くれてやった以上どうなったってあっちの勝手であり、思ったように生かされなかったなら、それは見通しが甘かったのである。くれてやったものが将来もそのままいいように生かされ、ボランティアたちは感謝の思い出につつまれて、なんて甘ったれた発想はどこから来るのだろう。

なにかしてやって、それが本当に目的通りに続けられることを望むなら、そばで見張り、つねに報告させろ。ほっといていいようになるわけないではないか。頼むから曽野綾子おばさまに似ているとかいわないでほしい、というか、産経新聞の不思議は、こういう言説のコラムと、曽野綾子おばさまが同居しているところだったりするのだが。

善意でものごとが行われるとして、その善意に受け手が応えて当然というセンスは世界標準ではない。金持ちが好きなように金を落としに来たんだから、それを利用してやろうというのがふつうである。これは前にも書いた。↓
自分の善意だか誠意だかに他人が縛られるという発想そのものが、自己中心的である。
ボランティアなんてしょせんその場限りのものだ。それも、非力な自分を救済するためのものであって、あとあと相手に指図する足掛かりにしようだなんて迷惑至極である。

ところで、相手のためと称して行うよけいなお世話(よけいなお世話はすべてそうであるが)というのが、眼科の徒弟制度的手術学習過程にもよくある。
手術ができると自負する上位者が、下位者に、「おまえは下手だから、この手術は学ぶな」と指導するのである。「センスがない」と偉そうに言い放つ人もいる。
上位者が、たとえば雇用主であって、下位者の手術にトラブルが多いから経営上困る、もう勘弁してくれ、というならわかるのであるが、研修課程でおこるのでうっとおしい。
「お前は硝子体手術に向かない」と宣言されて白内障手術ばかりさせられるのはまだしも、「お前は内眼手術が向かないから涙道手術をやれ」といわれたり。しかも放置されるのがたいがいである。それは指導とはいわない。

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